2018年3月1日木曜日

無くならないスポーツとパワハラの関係

五輪4連覇中の伊調馨が、日本レスリング協会理事で選手強化本部長の栄和人監督から「パワハラ」を受けてきたと週刊文春が報じた件が、波紋を広げている。

スポーツと暴力については、以前にも自分の考えを述べたけれど、僕も学生時代にたくさんのパワハラを受けてきている。

1年生の時、多くの優秀な選手が入部してきて「こりゃ、現役時代にレギュラーになるのは無理だな」なんていつも思っていた。

それでも夏前位になると、パワハラ(暴力)が原因で退部していく仲間が後を絶たなかった。

パワハラといっても、物理的な暴力もあれば、精神的な暴力もある。
僕の場合は先輩からだけでなく、管理者側からもあった。

退部していった同級生のほとんどはそれを機会にスポーツから遠ざかり、その時点で彼らのスポーツ選手としての能力は絶たれてしまったのだ。

これについて、卒業して20年経った後に行われた同期会の際、酔った勢いで監督にぶつけてみた。
戦時中から進化していないスポーツ指導方法で成り立っていた時代であったにせよ、「今となっては思い出・・・」なんて言葉では片付けられないほど僕の人生においてダメージを被ったことを伝えた。

先輩はそれっきりであったけれど、監督はそれからたくさんのことを学び、努力されたことを知っているので、今では“違う指導者”として尊敬している。



しかし、自分がスポーツ指導者となった今、どのようなことがあってもスポーツに暴力はあってはならないと思う。

指導者が暴力によってそれを教育、指導とするのならば、それはパワハラ指導方法しか知らない指導者である他ならない。
つまり、指導者としての能力がない人が「自分が教わってきたように教える」しかないのである。愛の鞭だとか、時にはしつけに暴力は必要だとか、これが暴力か否かとか論議する必要もない。



暴力は痛いだけではない、選手の可能性も摘んでしまう。




スポーツから暴力が無くならない理由のひとつとして考えられるのは、多くの指導者が、そのスポーツの経験者(先輩)であるというだけで指導者になっているケースである。

そこにある理論は指導論ではなく、選手としての経験論であり、多くのパワハラは、教育的意味合いよりも、怒りや恐怖、そして選手に対する嫉妬であるように思えてならない。
その証拠としてパワハラを行う多くの指導者は「オレたちの頃は」「最近の選手は」といったタラレバを言う。

そもそも論では、指導者は現役時代優秀な選手である必要はない。
指導方法が成り立つのであれば、その種目を経験していなくても良いとさえ思っている。

昨今日本の大学では、プレイヤーとしてのスポーツではなく、マネジメントとしてのスポーツを専門とする部活やチームが設立されている。

彼らは高校時代にプレイヤーであった人が大半ではあるが、男子スポーツに女子のコーチが就任することも少しずつではあるが出てきていることから、大学などがスポーツマネジメント、コーチングを専門とする養成場所となってきていることがうかがえる。



指導者と選手との関係は簡単である。 双方には契約関係があり、情熱以外のものでお互いに超えるものがあった場合、契約を解除すればよいことで、常日頃からお互いに解除しやすい関係を築くことなのである。




そう、簡単に言えば、指導者と選手の関係はパートナーシップであり、子弟関係でも上下関係でもないのだから。
それでも尊敬や上下関係が発生するのは、個人の意思尊厳であり、他人がどうこういうものでもない。
若い世代から指導者のプロが早く誕生することを望む。


今回の件は事実がはっきりすれば明確になるが、立場上、伊調選手が「パワハラ」と感じたのであれば栄監督は調査対象となる。しかし、ハラスメントであったかどうかは、第三者による調査が必要であると思う。


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