2018年3月14日水曜日

スポーツ指導者と暴力

前回、無くならないスポーツとパワハラでスポーツと暴力について持論を述べた。

今回はもう少し入り込み、いわゆる“体育会系”と暴力について再び持論をまとめてみたいと思う。

あくまで持論なので「ふーん」という感じで読んでもらえれば光栄です。


昨年末の大相撲界暴行事件以来、再びスポーツと暴力につて取りあげられることが多くなった。
2015年に発足したスポーツ庁でも暴力撲滅に対して本格的に動き始め、日本体育協会でも相談窓口を設置するなど具体的な防止策が図られている。


では、“体育会系”という言葉を聞いてどのようなイメージをもつだろうか。


そもそも体育会系とはアメリカではJockと言われ、高校の男性スポーツ選手を指し、校内の階層としてスポーツで活躍する人達や得意な人たちを示している。
ちなみにJocksとはそれらを支援、応援する人やチアリーダーを指すことが多いそうだ。


スポーツにおける根性論や精神論、上下関係などの規律はJockにもあり、アメリカでも同様に存在するので、体育会系は日本に限られたものではないことは言える。


ではスポーツと暴力はどのように結びついてくるのか。

最近では選手だけでなく、サッカーのサポーターの過激な行動にもみられるように、多面化の様相を示すようになっている。



そもそも人間は暴力をふるう動物であることについて「攻撃:悪の自然史」という形で論じている。(スポーツ指導の暴力行為について:阿江)


また、人間の攻撃行動について「人々の正常な社会的行動の一部」と位置づけ、他者との対人的葛藤が社会的紛争を解決するために選択された行動のひとつとしてとらえている。(攻撃の対人機能:大渕)



20年前の資料では、学校社会での暴力の半数は体育教師(指導者も含む)からというデータもあり、スポーツを通じて体罰を受けてきた教師が、同じように体罰を用いて指導することからスポーツと暴力が示されたとされるが、上記のように対人の暴力はスポーツに限られたことではなく、人間としてコミュニケーションを取るうえで自然な行動と位置付ける人もいる。


また、暴力というと、物理的な攻撃のように思われるが、実は心傷として最も残りやすい暴力は、殴るとか蹴るというものではなく、差別や対人関係、コミュニケーションによるものが大きいという。


昨今話題になった、上司からの執拗な叱責によって、社員が自殺した事件などは後を絶たず、政治家が秘書に対して暴言を発し、パワハラで訴えられたケースもしかり、未成年者のいじめによる自殺も後を絶たないことからも明らかだ。



話は元に戻って・・・

一般的に体育会系はどう人を指すか


  • 皆で苦労や達成感を共有することを好む
  • いわれた仕事だけやっている人が許せない「仕事は創造力!」が口癖
  • 覇気や活気がないことをに苛立ちを感じ、ノリや勢いで進める
  • 後輩に御馳走することをステイタスする
  • 忙しくしていることや体調が悪くても仕事をしていることを美学とする
  •  残業を仕事熱心な証拠だと思い込む
  •  声が大きく、「がんばれ」が口癖
  • 飲みニケーションと称し酒宴に強制参加させ、かつ後輩に酒を強要する
  • 上下関係、挨拶、礼儀に厳しい

もし、上記が本当に体育会系のイメージだとしたら、イコール暴力ととらえていいだろうか?

またはスポーツ選手だから、体育会系だからといって即暴力というのは間違っているように思える。


むしろ暴力は社会的なもの?
などとも想像できる。


ではなぜそのようなイメージがついたか。

スポーツ選手(ここでは体育会系と呼ぼう)はオリンピックやプロスポーツ、CM起用などで、社会的な地位を確立しつつある。

そのため、政治家や芸能人のように個人が表に出る機会が増えメディアの普及も手伝って


スポーツ選手=古い体育会系気質 →  暴力事件


体育会系は暴力的


というイメージになっているのかも知れない。

しかし、現在のスポーツ選手はスポーツだけでなく自身のコンディショニングやドーピングの学習、メディア対応やスポンサーとの交渉など多くの活動をしていなくてはならず


よっぽど教育されていない人間以外は、むしろ一般人よりもコミュニケーション能力や適応力が高いという点を評価されてもおかしくない。

では先ほど述べたように



「暴力」は対人の社会的行動のひとつとして用いた行動なのでは?
社会全体が暴力や罰によって行動しているのだろうか。




しかし、社会的な制裁や罰と、暴力やいじめは、大きく違うところがある。

スポーツでも企業でも、秩序を守れない人は罰を受ける。


それはスポーツであれば練習などに参加できなくなることであり、企業では減給や解雇がそれにあたる。

しかし、プレーが下手だとか、エラー、仕事ができないことや、ミスをしたことで暴力を受けたり、もちろん差別によっていじめを受けることは間違っている。


また、自分がルールを逸脱したにもかかわらず、それに対する罰を、ハラスメントとするのも間違っている。

これでは組織の秩序は守れない。


つまりは、
罰と暴力をはき違えてしまっている。



これは加える方も受ける方も。


相撲やボクシングの試合で張られたり殴られたからといってそれを暴力というだろうか。
これは決まったルールに基づき行動しているからであって、暴力とは言われない。

しかし、試合後や参ったといっているのに追尾して殴れば、それは暴力となってしまう。



だからといって、理由があれば体罰も容認ということではなく


どのようなことであっても暴力やいじめはいけない。

しかし、ルールに基づき、ルール違反があった時や、罰や制裁を受けることに同意しているのであれば、それらを受け入れることが秩序につながると思う。


だから、プレーだけでなく私生活においても独自の法律?ルールが必要になってくるであろうし、なぜルールを守らなければならないか、守らないとどうなるのかについて教育することが大切であるというのが結論である。



最後に


スポーツと暴力、ハラスメントは日本だけではなく世界中で起きていることであり、日本の指導者は指導力がないとか、アメリカでは指導者が暴力を振るうことはないなどということは間違いである。


しかし、戦時中に作られた絶対服従のシステムが、現在の縦社会や一部の伝承によってスポーツ指導者に残っているのは否めない。


暴力スポーツ指導者とは「統率」と「服従」、「指導」と「指動」の区別ができないからで、先輩から受けるパワハラの原因は加害者側の「嫉妬」と本能をコントロールできない「教養の不足」「精神の未成熟」であると考えている。



殴られて指導された選手が、指導者になって殴って教える方法しかわからないのでは、いつになっても進歩がない。



スポーツ指導者のみなさん
どこかで切り替えようよ。






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